トップ 最新 追記

sawadee!!紀行+


2004-04-04 目指せ、アフガン。 [長年日記]

PESHAWARE

ついに大学時代から望んでいたアフガニスタンへ向かいます。思えばそのころはタリバンが勢力を伸ばしているときで、インドのデリーではラバニ政権のVISAが、パキスタンではタリバンのVISAが取れるという状況でした。これだけでも、この国の混乱は十分に伝わるかと思います。自分は大学時代から旅を始めたのですが、世界をウロウロしているうちに、日本国内でみんなが考えていることと、現実世界は大きく隔たりがあることを実感て、ジャーナリズムに憧れを持ったものでした。燃えていました。世界情勢のチェックが日課で、そうこうしているうちに、この国に行ってどうなっているか、自分が行って確かめなくてはならない、とおこがましくも思っていたものです。歴史は常に動いています。そんな自分が就職して、広告の制作という仕事をやっていくうちにも、タリバンは駆逐され、ほかの場所でも大きく世界は動きはじめました。

いまの立場は、できるだけ多くの人に、地球や世界の魅力を知ってほしいというものです。まずは海外に裸で出てもらいたいっていう考え方。ジャーナリズムのように直球勝負ではありません。でも、必ずや人々にアフガンを通して地球の大きさを伝えていきたい。というわけで、明日にもジャララバード入り。チェコのNGOで7ヵ月間マザリシャリフに滞在していた友人からのサポートもあるし、簡単なことならウルドゥー語も操れるようになってきたのでご心配なく。

あの甘酸っぱい自分の青春時代の夢が、いままさにかなおうとしているわけで、いわゆる感無量ってやつです。気を引き締めて、戦乱の後の国へ。本気汁全開。で、なんやねん、その汁って。(ノリツッコミ)

本日のツッコミ(全2件) [ツッコミを入れる]

koko [長年の夢がかなうのは何よりです。忘れられない滞在になることでしょう。 でも命を落とすことだけはないよう本当に気を付け..]

uracci [わおわお、いましがた(6/19)見つけました。西欧なのですがはっきりいって、こちらの路地裏の方が怖いかなぁ。koko..]


2004-04-05 [長年日記]

PESHAWAR→JALALABAD

ついに乗り込むときが来た。ヨシヤ、淳くんと自分の3人で行く。準備は整った。シャルワルカミースというここら辺の現地服を着て移動する。景気付けにフルーツシェイクを飲んだ。もちろん酒がご法度の国だけに仕方がない。大の男たちが膝をそろえてストロベリーシェイクやバナナシェイクを飲む。目の前に額から汗を流した恰幅のおっさんが来て「ストロベリー」と言った。
アフガンへの道は思ったほど悪くなかった。道は、である。途中にはいろいろとやっかいなことがあった。トライバルエリアというのはご存知だろうか。パキスタンとアフガンの国境に横たわるそれは、法律など及ばない無法者地帯である。漬物石のようなハシッシやジャキン!とレバーを引けばすぐにでも殺傷可能のカラシニコフがゴロゴロと転がるところ。そんなデンジャラスゾーンをタクシーで越えていくのである。ぜひ、次こそはフラリと中に入っていきたいものである。それはさておき、ここを通過するには必要なものがある。それは通行許可証と銃を持った傭兵(警察)。実は、まぁなんとかなるだろうと警察署にいかずにタクシーだけで出発した。途中で金を払って雇えばいいさ、と。そのせいで少し長引いた。チェックポストにいた警察を引っ張っていったのだけれども、少々お金がかかってしまった。カラシニコフを奪い取りズドンといってしまいたかったが、ガマンした。タクシーから見える景色は、それまでの砂漠地帯と少し違っていた。山々が現れ、高原の風が吹きはじめた。高い門で閉ざされた広大な家々が見える。「これがアジアで一番大きな家だ」と、突然彼は言った。麻薬や銃取引で建った宮殿である。それなのに怒りなどは感じなかった。ただ、ここは特別なところなのだと変に納得した。
国境での手続きはいやにラクだった。アフガニスタン最初の街、ジャララバードに向かう車もすぐに見つかる。そして道も立派なアスファルトだった。だから目的地には数時間で着くことができた。ただ、ただ違ったのは畑一面にケシの花が咲いていたことである。その手の知識を持っていないふたりに、「あれがケシだよ」と伝える。彼らの目はまだ見ぬ好奇心に輝いていた。もちろん「オピウムをやりたい」という意味ではない。まだ見たことがない有名な植物を初めて見たからだった。
ジャララバードは、パキスタンとは、少しだけノリが違った。写真は紙を使ったピンホールカメラ。露天の雑貨屋には正確に作ることができなかった不ぞろいな人形たちが並び、食べ物の屋台もメニューは知っているのに未体験のもののような見栄えをしている。ただ、子供たちは元気だった。カメラを構える我々を見て集まってくるのだった。と思ったら大人たちも集まってきた。子どものような大人たち…このときは良かったのだけれども、今後この性格に困らされること予想できなかった。夜ゴハンは特産のケバブを喰らう。これでもか、と串を空けていく。ナンもついて1ドル。すでに南アジアの物価に慣れていた自分は高いと感じた。
さらに夜中。寝静まった頃、大事件が起こった。それは生命の存在をも揺るがすものだった。
画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明

2004-04-06 地震と雲の反乱 [長年日記]

JALALABAD→KABUL

夜中に事件が起きたのは前日の日記のとおり。さて、何が起きたかというと…地震である。大地震。ゴーという音が聞こえたかと思うと、地面をシェイクするような揺れが続く続く。収まったかと思うと、今度は横揺れがやってきた。阪神大震災ほどではないけれども、海のうえにいるかのようなゆーらりゆらりとした揺れが我々を襲う。横揺れになる前にみんなでベッドの下にもぐりこんだ。それほど大きな地震だったのだ。自分も被災したけれども、阪神大震災の余震の中でもトップクラスのものと同等のものである。推定震度は5.5。朝起きたら壁中にヒビが入っていた。よくぞ崩れなかったものだ。
ジャララバードからカブールに向かう車は、カローラのバンだった。前にドライバーを含めて3人のアフガン人が乗り、後ろはオレたち3人。最初の方はそれなりにうまいことやっていた。ただ、パンクが多かった。今日も延々と続くケシ畑。こうも見ていると慣れてくるのが不思議。アフガンを出たら懐かしくなるかもね、なんて冗談を言ったりしながら何度も休憩を取りつつ車は進む。みんな砂煙で顔が真っ白。もちろん窓は閉めていても、である。山道に入って車はまたパンクする。うんざりしながら手伝ってやるのだが、淳くんが乗り込む前に車が発車したときがあった。後輪がかすめるように彼の足を轢き、えへらえへらと笑うアフガン人。プッツリいってしまいそうである。淳くんが大事には至っていないというので、ガマンして乗り込んでどんどん車は進む。まだ着いてもいないのに、金くれ、金くれ、と言い出す始末で、最後には無視していた。カブール市内に着いたのだが、泊まるホテルの近くにあるスピンザーホテルまで行ってくれと交渉する。面倒くさそうに、パーミットがないから行けないというドライバー。ウソに違いない。面倒くさいだけなのだ。問答が続いても、折れずしかたなくタクシーを探す。その前に荷物を車から降ろしたのだけれども、その際にあやまって予備のタイヤを落としてしまった。そのタイヤがアフガン人の足にあたる。たいした衝撃もないのに、サッカーのファウル以上に大げさにアピールするアフガン人。キレた。こちらは仲間が足を轢かれてガマンしているのである。まずお前が先に謝れ、という言い合いになる。ヤツらは何かオレたちを罵倒するようなコトバを言って去っていった。はっきりいって殺意がわいた一件である。タクシーに乗って、スピンザーを目指す。が、こちらも到着する前に金くれ、金くれと言いまくる始末。おまけに降りるときに払おうとしたら、アフガニスタンの金じゃないのでダメだ。と文句ばかり言い出す。だーかーらー、交渉はパキスタンルピーでしたじゃないか。それはパキスタンルピーで払うことを意味しているじゃないか。バカばっかりである。最初の印象が良くてもアフガン人はどこか信用できない。
宿を決めるときも似たような感じだった。「いくら?」と聞くと「20ドル」とまず言う。バカかオマエら。そんな値段は西欧だけで十分なんだよ。あんまり人をバカにするんじゃねー!と怒りながら言っても意味なし。やる気なさそうに「それは前のことだから」と言い出す始末。こんなばかげた会話のせいで何件かホテルを探す羽目になった。決めたのはパシュトゥニスタンというところ。窓は広く、ベッドは監獄のようなところである。一泊4ドル。これでも高い。内戦やタリバン駆逐のときに泊まりに来たジャーナリストどもが物価を引き上げてしまった。国際情勢を探る前に、国際価格を知ってほしいものである。東南アジアでもそう。物価を破壊する無知なツアー客のせいで、いつも我々は苦労する。それだけならいい、彼らのマインドが拝金主義になるところがもっとも嫌いなのだ。そして、絶対によくないことだと思う。簡単な理屈である。自然の多いところに行けば、その自然を壊さぬように観光するだろう。それと同じで、ローカルの人々の心を金に狂わせるということは、自然破壊にも等しい観光方法なのだ。
このパシュトゥニスタンというホテルは、ここいらにしては普通なのだが、面倒なことがひとつあった。警察が巡回に来るのである。何十分もバカげた質問に付き合わされる。こういう国の役人とは取り合わないに越したことはないんだけれども、やってくるのだから避けようもない。
寝る前にみんなで空を見た。それはとても不思議な光景だった。雲がみるみる形を変えていく。手が現れた。その手は地面を指差し、月の光を受けて、黒い影が街をサーチするように動き始める。別の雲がやってきた。その雲も形を変えて手となり、こいつが指差す雲に突っ込んでいったのだ。手首をつかむ手。そのうちふたつの雲は融合し、月の方へと流れていく。月が目玉の目となった。目玉がロールする。何かを探しているように。この国は今朝の地震といい、自然現象がとてつもなくおかしな国である。
画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明

2004-04-07 自炊開始。 [長年日記]

KABUL

メシ高いです。だいたい一食1ドル。んなもん、無理でしょ。旅の 期間が短くなっちゃいます。てことで、ラダック以来となるコンロ と鍋を出動。市場をうろうろしていると、新たな発見が!野菜が異 常に安い。ほうれん草やニラなんて、日本で売っている束の3倍以 上はあろうかという量で0.2ドル。いま部屋をシェアしている友人 たちと野菜炒めをつくってみました。クッキング・イン・カブール。 内容はというと、ナスとネギの炒め物。これがまた醤油プリーズ! という出来。もうひとつはポテトを炒めたあとにほうれん草とニラ を入れてオリーブオイルをぶっ掛けたもの。これもウマイ。ひょっ としたらカブールで店を開いちゃう?というぐらい。カレーばっか りのところから、今度はケバブばかりのところに来ているので、新 鮮さもひとしお。ラホールで会っていた創くんとイローナも合流。
いまからつくる夜メシは、秘密兵器を出動させます。その名もバー モントカレー。友人の淳君が日本から数ヶ月も運び続けてきた一品 なのであります。野菜もりだくさんのカレーを食って、さて、バー ミヤンに向かうとしますか!であであ。
(追伸)中国製の電池、一度も使うことなく死亡…5秒で充電が完了する一品です。
画像の説明画像の説明
本日のツッコミ(全4件) [ツッコミを入れる]

くろさわ [突きすすんどるねー。ひさしぶりー。こちらはチャリに乗ったりしながら日々ぼけーとしてるよ。 春だもの。しかたないよね ..]

 [おーー淳君バーモントカレー持ってたんかーー!そ、そんな事一つも聞いてない!食べたかった…皆もしかしたら秘密兵器どっか..]

Pero [オー、いつの間にかアフガンですな。すごい!君の実行力は賞賛に値するよ。こっちはみなさんあれこれ変化もあって、月日の経..]

uracci [くろちん> で、どうよ?ちょっとはやせたんかい?こっちなんて、もうかれこれ2ヶ月の禁酒だよ。浮き輪のない海は沈むので..]


2004-04-08 伝染病となるか [長年日記]

KABUR

悪しき考えは伝染するという。今日、イラクのファルージャで日本人が拉致されたらしい。どうやらジャーナリストとNGO関係者ということ。旧来の友人ペパミンが教えてくれた。彼女はハンドメイドのアクセサリーを本格的に作っている人なのだが、カブールみたいなところからメッセンジャーをすると、なんか不思議な気がする。国際情勢とかについてあまり話したことがない上に、場所が場所だし。とにかく、つかまったということと、福田官房長官&小泉の「テロには屈しない」という発言を教えてもらう。国際情勢について追いかけているヨシヤと談義をする。「これはヤバイのではないか」。しかし、もはや出て行くすべはない。慎重に駒を進めていこうということで一致した。タリバンエリアに近い南部をまず避け、中部のバーミヤンや北部のマザリシャリフを回りながら情勢を見ようと。いざとなったらUNやNGOを頼るか、最悪の場合第三国に強制出国できるだろう。逆に小泉の超強気の発言に安心した。彼にはポーカーフェイスが似合わない。強気な発言が出るということは、それだけ裏側で何か手を回せそうだということを意味している。そういう意味で、ネットに行ってメッセンジャーにつないだのは正解だった。
今日はテレビタワーのある丘に登ってカブールの街を一望した。広い。ラダックと同じように砂でできた家々。何か親近感を覚える。街から墓場を通り抜けて丘へ登っていくときに、かわいい子どもたちに出会うことができた。
画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明

2004-04-09 バーミヤンへ [長年日記]

KABUR→BAMIYAN

アフガニスタンのハイライトのひとつバーミヤンへ向かう。交渉したのはハイエース。値段も手ごろに落ち着く。人数はぎゅうぎゅう。9人しか乗れない座席に12人が乗り込む。短距離ならまだしも長距離の移動である。これはなかなかつらい。みんなで特にツライ席を回し持ちして10時間ぐらいバスに乗った。途中の道は絶景に次ぐ絶景。砂漠とも高原とも山ともつかないところを走り、ついには雪道となった。そのあとは、ずんずん高度を下げていく。バーミヤンの手前の村が美しかった。緑が一面に広がる畑、小川、そしてエンジ色の山。乗り捨てられたスウェーデン軍の戦車。土煙を吐きながら車は進んでいくが、またしても着く随分と前から金をよこせ金をよこせ。しばいたろか!
バハールという宿を見つけ、値段交渉を済ませ、チェックインをしようと建物の裏側へ降りようとした。タリバンに破壊されたブッダ像が見えた。あれか!あれを見るためにここに来たのだ。その手前では草サッカーをやっていて、平和がやってきつつあるのを感じた。ヨシヤとサッカーに参加して、夜飯を食べた後、事件はおこった。「毛布が足りません」。だから、さっきここに5人チェックインするって言ったでしょ!どうしてあとのことを考えられないんだよ。オレとヨシヤが特にプッツリきてしまって、「それでも、オマエたちのを持ってこい」と詰め寄りまくった。イローナが「本当にないのよ」とかばおうとしたけれども、火のついた自分たちを止めることはできなかった。結局、あと2枚持ってこさせて合計4枚。まだ一枚足りない。テントとスリーピングバッグカバーを持っている自分が損をかぶることにした。部屋の中にテントを建て、それがオレの仮住まいとなった。バーミヤン一日目は、モメまくって終わったのだった。そして数日後にまた事件が起こる。今度は怒りに我を忘れそうになる事件だった。詳しくは数日後の日記に。
画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明

2004-04-10 ブッダ・イズ・ナッシング [長年日記]

BAMIYAN

朝起きて、部屋の扉を開けると、ブッダ像跡が見えた。一等地である。ただ、北向きのためとても寒い。さぁ、キンと張った空気の向こう側へ行ってみよう。見えているとはいえ、畑とも地雷原ともつかないエリアを避けるために、街の端っこまで行って迂回しなくてはならない。およそ30分の散歩。しかしながら、丸太橋を渡ったり、農業をしているおじさんがいたり、と楽しいハイキングになった。ブッダ像は、やはりなかった。壁と同じ色の石がゴロゴロと転がっている。アジアの神様は粉砕されていた。そのくせ、アフガン人はあれはイスラム教の遺跡だ。と言い放った。なんで?とこのときには思ったけれども、後になって理由に気づくことになる。オマルの率いたタリバンは、この国に蔓延していたイスラム教を「違う」と否定したのだから。ここからは勝手な推測になるけれども、ここバーミヤンを本拠地に置くハザラ人たちの象徴だったのだ。タリバンたちパシュトゥン人たちは、他の民族の神様をぶっつぶしたと言えよう。まぁ、この宗教を相手に神様というコトバを使うのはどうかと思うのだけれども。
みなさんに謝らなくてはならない。どうやら素晴らしい光景に出会ってしまったため、一眼レフばかりを使っていたようで、デジカメの写真は非常に少ない。本当ならば、ブッダ像の頭の位置まで上がった写真があるはずなのだが、まぁそれはまたお会いしたときにでも。
夜、NGOの連中がやってきた。「オレたちと車をシェアしてバンデアミール湖に行ってみないか?」。元から行く気だった自分には断るすべはない。話も丸く収まり、明日は世界で一番美しいといわれる湖へ。ちなみに凍りついたバイカル湖も美しいといわれている。これは予備情報。
画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明

2004-04-11 地球は、途方もなく大きかった。 [長年日記]

KABUL→BANDEAMIR-LAKE→KABUL

それは、紫色だった。途方もなく澄んだ紫色だった。あやめの花の色をそのままに、絞り汁にできたらきっとこの湖をつくることができるだろう。湖には小さなモスクがあった。聖地になるほど独特のオーラを放っているのだが、ここの、それはとても強烈で唯一無二のものだった。だれかれ構わずなぎ倒してしまうほど、暴力的でもあるし、春先の布団のように包み込むような感覚を併せ持っている。
この湖(たち)の特徴を説明したい。まず一番下。モスクのある湖は紫色。とてつもなく深い色。その端からは透明な水が大量に流れ落ちていた。水のたっぷり入った容器を傾けたときのように。周囲を囲む山々は赤やら黄色の地層が剥き出しで荒々しい。たまに、ステップ気候に生えるような草がぽつりぽつりと所在なげにたなびいている。紫色の湖は、変化する。高台に登り、太陽が顔を出したときに、それは南国の空のような濃紺に変色した。その上に何個かゴルフ場のコースのような形をした湖があるのだが、それらはエメラルドグリーンである。そして、もうひとつ高くなっているところに紫かつ濃紺の湖がまたあった。凄まじいかな、地球のポテンシャル。狂いまくった風景。どんな画家も描ききれなかった湖が目の前に広がっていた。
帰り道、戦車の頭が落ちていた。首を切られたそいつは、むげにも傷口を天にさらしていた。錆びろ。と空は言う。雲がどんどんやってきて、夜更けには雨が降り始めた。
画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明

2004-04-12 白豪主義 [長年日記]

BAMIYAN

暴走した。何人かは暴走しそうになり、一人は確実に爆走した。5人のうち、ひとりだけ女の人で、一人だけ白色人種であるイローナがキレた。泣いた(らしい)。というのを、夜メシどきに創くんと淳くんから聞いた。その矛先は自分とヨシヤだった。初日に毛布の件で派手にモメたこと、バンデアミールで写真を撮りたいために「車を止めてくれないか」と執拗にドライバーに言ったこと、あと4人が日本語で会話していることにも混乱しているという。また彼女はベジタリアンで、肉ばかりのこちらの料理にもマッチしていないようだ。それらが積もり積もってパンクしたらしい。女の人、ということには気遣ってきたつもりだ。「女の人だから」ということで特別扱いしたことに、どうこう言いたい社民党っぽく、かつキャリアウーマン風のあなたは黙っていてくれ。それはこの国を知らなさ過ぎる発言だからだ。
はっきり言おう。知らなさ過ぎる、という点で彼女は本当に問題を持っていた。無知は罪である。そしてそれを抱えてしまったのはオレとヨシヤということだ。母国がオランダで、英語は通じて当たり前。アジアの人たちは英語を勉強すべきだ、などという常識で頭がいっぱいになっていること。白人と出会わなかったときのことも考えずに我々とグループになったこと。何の準備もしていないこと。「まともな教育を受けていない人だから仕方ないわ」という彼女の姿勢(これが一番受け入れられなかった。だって、教育のないところには音楽があったり、それに代替する文化は必ずある。もっというなら、それを抑制してきたのがタリバンなのである)。何をとってもこの国に滞在するのには適さない考えと資質なのだから。あと、受け入れられなかったのは、ベジタリアンということ。やるのは勝手だけれども、それのせいでこちらまでメシ屋選びに振り回されているのだ。肉しかない国なのに。カブールでもバーミヤンでも彼女が菜食主義者だからという理由で、野菜を買ってきて自炊したし、その対策もなしに来たのかと思うとあっけに取られる。何でオレのガスコンロやフライパンを持ってしてその対策をしなきゃならんのか?と不思議に思う。郷に入っても、郷に従えないままパンクしただけなのだ。用意をしてきた自分とヨシヤはこうなることを、日を重ねるごとに感じていたのだが、まさかこんなに早くこうなるとは予期していなかった。本当ならば、「何で入国に関しての準備をしてこなかったのか」とか「菜食主義っていうけれども、動物はダメで植物はいいってどういうこと?食物連鎖のとおりに生きるのが人の道じゃないかな?特にここはアフガンですよ。肉しかないのは教育以上に常識ですよ」と、さらにワンワン泣くようなことを言ってやりたかったが、こらえた。イローナはオレとヨシヤを勝手で理解できないと言った。しかし、しかしだ。昨日、確かに車を止めてくれと言ったけれども、最初に言い出したのはスペイン人のカルロスだし、彼などそのままどこかに行ってしまい、クルマの発車時刻になっても帰ってこなかったではないか。白人ならいいのか?おい。
こいつとは合わないな、と思った。グループを分解することも考えた。オレとヨシヤだけなら気楽である。互いに面倒をみなくていい上、9年目に差し掛かる仲だけに阿吽の呼吸ができあがっているからだ。ここで創くんが口を開いた。「ウラさんとヨシヤさんのやることには僕も理解できないところもありました。でも、もう一度やってみましょうよ。彼女の言うことを汲んであげてグループを再編することも国際化のひとつですよ、と」。理解できない、というところに「なんで?」という疑問はあったけれども、大筋にはチャレンジして(やって)もいいと考えた。割勘でないと安くならないということも、もちろん頭をよぎったのは言うまでもない。淳くんは、「僕はあまりものを喋らないけど、間に入れたのは自分だけだったのに」としきりに反省していた。ふたりとも女の人に優しいのである。なんでか、イローナに「これからも仲良くやろうよ」ということをオレが言った。謝ったのは4人で話す機会が多かったこと。これは確かに気を使ってやってもいいかな、と思った。まぁ、4人が欧米人で1人だけが英語の苦手な日本人だったとしても、こうはしてくれないだろうけれども。なんか腑に落ちないけれども、そういう方向性で明日から旅を続けることになった。またキレなきゃいいんだけど。バクダンしょいこんじゃったよ。アフガンでバクダンってシャレにもならんなぁ。
今日の写真はバーミヤンの街をうろうろして撮ったものです。たくさんの人と仲良くなったよ。そのうちの一人が、なんとパキスタンのフンザで一緒だったえーちゃんとマキちゃんの写真を持っていたのだ!これはアップしなきゃ、というわけでおふたりさん、ぜひダウンロードして持っていってね。
画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明

2004-04-13 還付 [長年日記]

BAMIYAN

ランチは豪勢だった。ニュージーランドのベースキャンプへ行ったのだ。兵士たちがイローナを見て、ランチをご馳走したいといったらしい。それはそれはすごかった。ビュッフェスタイルなのだが、新鮮な野菜がゴロゴロと転がっていて、おまけにジュースでも何でも飲み放題。まさにコメと緑茶以外なんでもあるといった様相である。がっついた。醜いほどに。ニュージーランドのみなさん、そして惜しげもなくお金を吐き出している日本のみなさん、ごちそうさまです。(もちろんオレが働いていたときの金も入っているのだろうな)
夕方に戦車の墓場へ。20個ぐらいの戦車が転がっていた。そのうちの数個は子どもたちの遊び場となり、また何個かは大人たちによってパーツを持ち去られ生活用品となっている。現地の人たちの足跡を確かめながら歩いた。夜になるとハザラ人の元リーダーの肖像画がライトアップされる。
画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明

2004-04-14 マザール届かず。 [長年日記]

BAMIYAN→DUSHI

バーミヤンを出てからしばらくして、小さな川沿いの道を下流に向かって走り始めた。その分岐店以降、DUSHIまでは一本道。途中で橋が落ちていたりしたけれども、そういう例外をのぞいてクルマは淡々と走る。真っ赤なテーブルマウンテンのような山が現れたり、ケシ畑が現れたり。この街道沿いの道と街の復興はすべてアメリカ軍が行ったらしい。こういうことはめったにありえない。いろんな国が復興に参加しているのだから。ここはケシの運び出しなどに重要な道なのか?いまの時点では単なる推測にすぎない。
DUSHIの街が見えたとき、すごく嬉しかった。街道に到達したという充実感。宿に着いたら「宿代はいらない」とオーナーが言う。だが、またモメた。夜ゴハンを食べた後の請求に宿代も言われたのである。アフガン人は本当に物覚えが悪い。ベトナムでも水増し請求はよくあるけれども、それは向こうがだます気でやっている。だからかわし方もあるのだけれども、こちらのそれは本気で忘れてしまっているのだ。だから、本気で向こうも怒ってくる。クレイジー。店員と言い合いをしていたら、オーナーがやってきて、とてつもなく仕方なさそうな顔でこういった。「うーん、バクシーシ(喜捨)でいいよ」。…コトバ出てこなかったです。我々が、もうこいつらと話していてもしゃーないから部屋に帰ろうか、と支度していると…。今度はこぼれんばかりの笑顔になっている。「カメラ持ってるの!?撮って撮って!」。もはや、さっき宿代でモメたことを忘れてしまっているのだった。この民族、ある意味無敵である。インドやベトナムの騙しなんて、相手にもならない。こちらは純粋に忘れているのだから。痛すぎるぞ、アフガン人。でも、でも、そういうアフガン人に育ててきたのは、我々のような国であることを自覚せねばなるまい。彼らは自分の足で立つことを忘れてしまったのだ。そりゃ、痛くもなる。戦争も支援も、お金を導入することのすべてをなくしてしまった方がいいのかもしれない。
画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明

2004-04-15 ロシア圏 [長年日記]

DUSHI→MAZARISHARIF

マザールに着きました。カブールやバーミヤンとはまったく違うところですね。いろんなTVや本で見てきた中央アジアに近い感覚です。さすが、旧ソ連の近くだ。みんなは疲れたー、と横になってしまったけれども元気な自分は街を散歩。通りを一本入ると、すぐにデコボコの土道になる。「チャイでも飲んでいきなさい」。と何人もの人から声をかけられた。そんな道中にハマム(イスラム式サウナ)を発見。こりゃ行っておくしかないっしょ!ということで、ヨシヤと淳くんを誘ってハマムに行った。その前に一人でアイスをほおばった。うむ、うまい。ハマムは個室になっていて、中は湯気で暖かい。大きな部屋にポツンと水道の蛇口が付いている。なるほど、これで体を洗えということか。しかし、水しか出なかった。後から聞いたらこの個室だけつぶれていたようだ。でも、逆に気持ちよかった。熱気の中でヒンヤリとした水を浴びるのは、この上なく贅沢である。
さらに、モスクへ行った。また一人。一歩、敷地内に入って驚いた。熱心な信者がコーランを詠んでいる。その周りには何十人もの人が輪を作っていた。その輪はひとつにとどまらない。何個もそういうグループがあり、都合数百人もの人がモスクの周りでコーランを唱えているのだった。モスクは聖地のひとつに数えられているだけあって、なかなか立派なものである。その夜はポテトなどを軽く食べて寝ることにした。部屋は8畳ぐらい。その中に全員が雑魚寝する。ムシに刺されなければいいのだが…しかし、その予測は当たることとなった。かゆい…。
画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明

2004-04-16 モスク☆ [長年日記]

MAZARISHARIF

今日はみんなでモスクに行こうということになった。昨日行っていても、まだ足りないと感じていたので、こりゃちょうど良いチャンス。最初は男4人で行っていたけれども、あまりの人ごみにヨシヤ以外のすべてを見失う。まぁ、いっか。相変わらず今日もすごい人出。なんか昨日よりも催し物が多い気がする。磁石でコントロールするレーシングゲームや、チープな写真が変わっていくメガネ、手相屋、体重計屋、さまざまな店が出ている。自分とヨシヤはそのうちのひとつの店に釘付けになった。なんと、コーランをスチール製の入れ物に封じてペンダントにしているのだ。オレは2つ、ヨシヤは3つも買った。さて、ふたつといっても、残るひとつをどうしよう。「大切な人にでもあげますか」とか、「なんかそれってその人をイスラム教徒にするみたいだな」とか、いろいろ話しながら今日もモスクに参拝する。どうやら携帯電話は禁止のようだ。看板にそう書いてある。時代は、ここまできたか。アフガンにもモバイル。すごいことである。
夜はマザールのランドマークとなっているマスードの肖像画を撮る。こんなに民族という団体を意識させまくっていいのかな?と思うけれども、これが現実である。フルーツシェイクを飲んだ。ここのは、これまでの旅の中で一番うまいっ!そんなこんなで夜はふけていく。
画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明

2004-04-17 [長年日記]

MAZARISHARIF→BARKH→MAZARISHARIF

朝、これまでの旅でバナナシェイクが一番うまい感じた店で一杯傾けてから、バルクという旧城塞都市に出かけた。砂漠の中の一本道を借り切ったタクシーが行く。砂漠といっても、完全な砂ではない。小石が混じった堅い土の砂漠である。
チンギスハーンに滅ぼされたという城塞都市のモスクには地下があった。ここでコーランを唱え、トランス状態に入り、瞑想するのだ。いまは使われていない。公園を散歩していたら、バディアライという青年に会った。彼の家でゴハンをごちそうしてくれるという。このときはヨシヤとふたりだったので、「実は5人グループなんだけど…」と打ち明けると「そんなの一向に構わないよ。みんな連れておいで」というので、残りの3人を探し出して彼の家に行った。ケシの花が咲く彼の家は、ちょっといい暮らしをしていた。「もし泊まるなら大歓迎だよ」と言う。イローナと創くんは15日VISAなので、先を急ぐ。自分とヨシヤが再訪することを約束してマザールに帰った。
実は今日、一仕事こなした。「アフガンで最先端の髪型にしてくれ」。そう、散発をしたのだ。webにむさっくるしい髪の毛と素顔を乗せるのは、恥ずかしいのだが、まぁ下の写真を見てください。なにが、最先端なんだろうと思います。(ちなみに僕の見知らぬ人がこのサイトを見てププり書き込みをし次第、はずします、期間限定のカミングアウト)
今日は夕焼けが綺麗でした。とても澄んだピンク色だった。街の灯りも、暗くなるごとに増えてきて。オレ、マザール好きだな。きっとまた来る。
画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明

2004-04-18 平和を祈る金曜日。 [長年日記]

MAZARISHARIF

部屋がガランと広くなった。今日から自分とヨシヤでアフガニスタンの残りの道を行くことになる。他の3人は、2週間VISAで早く出国しなければならず、ヘラートへ急ぐと出ていった。昼下がりにモスクをぶらりと見に行き、郵便局へ。「今日は切手がないんだ」というワケのわからない理由でエアメールは出せなかった。アフガンから数人の知人・友人に届いたであろうエアメールには『マザリシャリフより』と書いたものの、実際には出せなかったことは内緒である。
夕方から夜にかけて、凄まじい風が吹いた。でも、イスラム教徒は祈りを欠かさなかった。
金曜礼拝黄金の扉扉の前の祈り食器洗い師嵐の夜の祈り

2004-04-19 サッカー☆ [長年日記]

MAZARISHARIF→BALKH

バルクに向かう。バディアライ一家は待っていた。早速、豪華なランチをいただく。血の臭いを引きずる牛肉を煮て作った料理、コルマ。だが、そこらの店よりも断然にうまいのだった。庭には相変わらず満開のケシ畑。昼寝の後は、チンギスハーンに責め滅ぼされた城壁とシュラインに連れて行ってくれた。城郭の中は何もない。ただの広大な台地。街ひとつ、すべて土に返ってしまった空間は、住んでいたものの叫びをただただむなしく、この空間に登らせたに違いない。城壁の向こうは、緑が色づく広大な湿地帯だった。牛追いをする子どもたち。寝そべる大人。カンボジアの農村と似通った風景だった。

サッカーをやった。パスやスペースという概念がない。ひたすら抜き、シュートを撃つ。もちろん守りは薄いドンパチサッカーだった。


2004-04-20 バレーボール☆ [長年日記]

BALKH

今日もとりとめのないサッカーをしていた。バディアライから声がかかる。「おれたちがするバレーボールを見にこないか?」。オレオレサッカーにも飽きてきていたので、暇つぶしに行ってみるかー、とタクシーを待った。アフガンはタリバンが駆逐されてから、やっとスポーツ文化が復興されつつあるのだ。いま、育ち始めているスポーツを見るのは、とても興味深い。キーッ。目の前に止まったのは一台のタクシー。バディアライを含め、寄ってたかって交渉する。どうやら激安プライスで決着したらしい。でも、一台だぞ?半信半疑でオレとヨシヤを先に乗せてくれた。が、しかし!なんと全員でムリヤリ乗り込むことになった。チームの6人、サポーターのおっさん、オレとヨシヤ、ドライバー。合計10人がただのボロカローラに乗り込む。前が4人、後ろが6人。ピカソの絵のような状態で底を打ちつけながらタクシーは走った。

バレーコートはミサイルでぶっつぶされた遺跡の中庭に建てられていた。取り囲む観衆。どうやら今日はアウェイでの試合のようで、村対抗のカップ戦だという。ん?ウォーミングアップを見ていると、やたらとみんなうまいぞ?

試合が始まった。ファミコンゲームのような、勢いのない単調でマヌケな笛で試合が始まった。プピーーーー。敵はバランスの取れた陣形、バディアライ側はセッター一人を前におき、5人をレシーブ兼スパイクに回すという陣形だった。敵のサーブ。長身の兄ちゃんが勢いのあるジャンピングサーブを拾う。ゆるく理想的な曲線を描きながら落ちてきたボールにセッターが身構える。前をアタッカーが走る。敵は2人のブロックをそちらに寄せた。そう見るやいなや、セッターは後ろにトスをする。低い軌跡を描いてコートの対極を目指したボールは、バディアライによって会心のスパイクに生まれ変わった。コートに爆風を巻き上げるボール。弾んだボールは後ろに止めてあった自転車の群れをなぎ倒した。

バディアライのサーブ。かなりの速度だ。しかもボールはネットの上を通過してから、揺れて落ちた。選手の目も観衆の目も着弾点に釘付けになる。一瞬の沈黙の後、アウェイに位置する少数サポーターがわきあがった。次のサーブ。今度は伸びる球だった。しかし、敵もさるもの。きちっと受けてアタックへとつなぐ。ボールは5人のレシーバーのわずかな隙間を縫い、弾み、そして後ろのケシ畑に消えていったのだった。子どもが走る。しばらくして「ボール見つけたよー」と、ケシの草汁がついたボールを持ってくる。おいおい、摩擦熱でキマってしまうぞ。ゲームは進む。ん?周りがハシッシくさい。そう、観衆のほとんどが一服をきめこんでいたのだった。ボールに注目しまくる観衆。それは凝視という言葉では足らないほど真剣な表情だった。きっとあらゆる動きをするボールに心を射ぬかれたに違いない。

シーソーゲームを繰り返しながら、少し敵のほうにゲームが流れ始める。向こうには、よく拾うヤツとムキムキアタッカーがいるのだ。ボールをケシ汁まみれにしたムキムキは渾身の一撃を放った。が、手元が狂ったのかボールはあさっての方に飛んでいく。着弾した先は遺跡の壁だった。ボゴッっと壁が崩れ落ちる。そのときチリンチリンと、買い物帰りのアフガン人がチャリに乗って遺跡の横をとおっていった。か、隠れキャラだ…。これはファミコンの世界だ…。

ゲームには負けた。チームメイト数人と、サポーターのオヤジと、バディアライと…。とにかく数人で歩いて帰った。夕暮れ間近の道を。悔しかった。サポーターのオヤジはずっと黙ったままだ。もちろんキマっているのではない。村の代表が負けたのだから。とぼとぼとどうでもいい会話をしながら帰る。ジュースを買いに商店に寄る。バディアライが言った。「おごらせてくれよ」。チームのみんなもそうだろうけれども、異国から来た友人の前で勝ちたかったのだろう。僕らはイランから流れてきているアップルジュースを飲みながら、またとぼとぼと帰路についたのだった。


2004-04-28 放牧とモノづくりの朝焼け [長年日記]

SHINRAN→HERAT

放浪の民は、外で寝る。シンランの宿のむかつくガキンチョとじじぃは外で毛布をかぶって眠っていた。相当に冷え込んだ朝だった。砂漠の寒暖の差は、やはり激しい。前かがみに震えながら車に乗り込む。昨日、ハシッシをバクシーシしてくれようとした男は、知らない間に去っていた。この近くに彼の村があるのだろうか。バスは相変わらず地雷原の中に切り拓かれた道を突き進む。灰色のモヤだった天空は、じょじょにピンク色に染まり、砂漠の大地はその動きに呼応してオレンジ色に染まっていった。
朝露は緑を映えさせる。すべての輪郭が、ある瞬間を境にバッキリと映し出された。今日が、また始まる。これまでに見た、どの朝焼けよりも人智を超えた完全なる朝焼けだった。それでも、寒いものは寒い。オレとヨシヤの歯はガチガチと鳴り続けていたのだった。
ヘラートは、これまでのどの街よりもスッキリとして落ち着いた街並みだった。それは経済格差からくるものだった。イランからの国境貿易で絨毯商人がたくさんいる。どこよりも平和な空気。数週間前に暗殺があって、警察が厳戒態勢を敷いたとは思えない落ち着きだった。モスクやミナレットなどの観光はもちろんしたのだが、そんなことよりも印象に残ったことがある。とある人々の生き方だ。彼らの手は油にまみれていた。彼らの手は擦り傷だらけだった。彼らが顔を上げると、生命の息吹を感じた。製造業に携わるものたちは、みな輝いていた。どこから入ってきたのか分からない日本製の車は、塗装をはがれ、シートのレイアウトを変え、ヘコミは大型ハンマーで荒々しく手直しされ、アフガニスタンのトヨタとなる。彼らとチャイを分かち合った。胸の中が晴れ渡っていくような感覚。彼らはその車を指差して「アフガントヨタ」と言った。製造業なくして国はない。東大阪の町工場の群れを思い出し、遠いこの土地からひそかにエールを送ったのだった。
ちなみにアフガニスタンで走る車のほとんどはトヨタ製で、その理由はわからない。
安ホテルの屋上からミナレットを見る昼は平和なのだが。

2004-04-29 アフガン出国 [長年日記]

HERAT→MASHHAD

女性という呼び方は嫌いである。だって、男性という言葉はなかなか浸透していかないのだから。そんなことはさておき、アフガンからイランに出国して気付いたことがある。女の人が輝いているのである。社会進出、などというどーでもいいコトバに置き換えることは可能なこの現象。こと欧米の食わせ物メディア漬にされてきた自分は驚かざるをえなかった。
男性からリスペクトされながらタクシーを運転するナターシャは、降りる乗客から最初の交渉以上の料金を受け取る術を知っていた。ただのトークで。身振りと愛嬌で。
この国には、アメリカが言うようなイスラムの弊害はない。セクハラだって幼児ポルノだってない。この国に、敵としてのアメリカは必要だけれども、アメリカの言うことは一切いらないのであった。
あとひとつ出国してから気になったことがある。当たり前だけれども、そこらじゅうに地雷や戦車がないのである。これは相当にショックだった。バスの中でもトイレの休憩でも、地雷原を確かめてしまう自分がいた。その大地に寝転んでもいいことが、とても高価なことのように思えた。しばらくしてバス道から数百メートル向こうに別の幹線道路が現れた。これもアフガンではありえなかった。地雷原を切り裂いてつくられた道は常に一本しかありえなかったのだから。日常の当たり前、いつその感性に戻れるのか、それとも戻れないのか。アフガンの残した傷は、たった一ヶ月間の旅人を洗脳するには余りあるものだった。
●後日追記
朝焼けの中をバスは走っていった。戦車や家が転がっていた。あとはずっと砂漠という名の荒地。国境事務所には3時間ほどで着いた。イミグレでの事務手続きを終えてバスを待つ。その間に小さな商店があったので入ってみた。電話があった。きれいな冷蔵庫があった。それだけで気が遠くなりそうだった。人が求める「便利な生活」というものが、ものすごくリアルに迫ってきたのだった。
いまもアフガニスタンで患った病は治っていない。この前、スコットランドに行ったとき、丘を登って北海を見渡す風景にあと少しで手が届く、というときに再発した。無意識に地雷を恐れていたのだった。ただの石ころに赤くペイントされた地雷原の恐怖を感じた。アフガンでの旅は一生拭い去れないトラウマもしょいこんだのだった。
画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明

2004-04-30 聖地の宿 [長年日記]

MASHHAD

この旅で多くの聖地と出会った。ここマシュハドはイランでも最大級の聖地とされているところ。モスクの門前町である。宿は昨日であったナターシャに「私の家よ」と連れてきてもらったところ。
夕方にヨシヤとインターネットをして帰ってきたら、大きな女がアヘンを吸っていた。キツイ匂いで、すぐにそれと分かる。女は言った。私はこの人の第二夫人よ。イスラム教とは、相変わらずナゾなのである。自分はナターシャが言った「私の家」というコトバに引っかかっていた。彼女は第三以下の夫人?ということは、ここの宿主のナゼルは相当の甲斐性者ということになる。
イスラムでは、第二、第三の婦人を作ってもいいかわりに、すべて夫人の面倒を見なくてはならない。それがアヘンでもいいのかということはさておき、生活面で苦労はかけてはならないことになっている。ナゼルは小太りのひょうきんな男。小さな宿以外に経営しているものはない。
画像の説明画像の説明画像の説明