2004-04-29 アフガン出国 [長年日記]
HERAT→MASHHAD
女性という呼び方は嫌いである。だって、男性という言葉はなかなか浸透していかないのだから。そんなことはさておき、アフガンからイランに出国して気付いたことがある。女の人が輝いているのである。社会進出、などというどーでもいいコトバに置き換えることは可能なこの現象。こと欧米の食わせ物メディア漬にされてきた自分は驚かざるをえなかった。男性からリスペクトされながらタクシーを運転するナターシャは、降りる乗客から最初の交渉以上の料金を受け取る術を知っていた。ただのトークで。身振りと愛嬌で。
この国には、アメリカが言うようなイスラムの弊害はない。セクハラだって幼児ポルノだってない。この国に、敵としてのアメリカは必要だけれども、アメリカの言うことは一切いらないのであった。
あとひとつ出国してから気になったことがある。当たり前だけれども、そこらじゅうに地雷や戦車がないのである。これは相当にショックだった。バスの中でもトイレの休憩でも、地雷原を確かめてしまう自分がいた。その大地に寝転んでもいいことが、とても高価なことのように思えた。しばらくしてバス道から数百メートル向こうに別の幹線道路が現れた。これもアフガンではありえなかった。地雷原を切り裂いてつくられた道は常に一本しかありえなかったのだから。日常の当たり前、いつその感性に戻れるのか、それとも戻れないのか。アフガンの残した傷は、たった一ヶ月間の旅人を洗脳するには余りあるものだった。
●後日追記
朝焼けの中をバスは走っていった。戦車や家が転がっていた。あとはずっと砂漠という名の荒地。国境事務所には3時間ほどで着いた。イミグレでの事務手続きを終えてバスを待つ。その間に小さな商店があったので入ってみた。電話があった。きれいな冷蔵庫があった。それだけで気が遠くなりそうだった。人が求める「便利な生活」というものが、ものすごくリアルに迫ってきたのだった。
いまもアフガニスタンで患った病は治っていない。この前、スコットランドに行ったとき、丘を登って北海を見渡す風景にあと少しで手が届く、というときに再発した。無意識に地雷を恐れていたのだった。ただの石ころに赤くペイントされた地雷原の恐怖を感じた。アフガンでの旅は一生拭い去れないトラウマもしょいこんだのだった。