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sawadee!!紀行+


2004-05-11 ペルシャ絨毯 [長年日記]

Istanbul

ここイスタンブールには、とてもいろんな日本人がいる。ハネムーンで来ている自分の友人に加えて、今日は絨毯ビジネスに手を出そうとしている大学生と出会った。絨毯屋で。彼は商談を終えて、荷物を持ち帰り、ゆうゆうとお茶を飲んでいた。見るからに自信満々。会話もハラの探りあいをたくさんした。

彼は株式投資で相当に荒稼ぎをしている。来年、自分が雇われる会社で「大手の思考とシステム」を自分のモノにしたら辞めて、起業すると言っていた。人からは「やめておきなよ」と言われても、彼は止まらなかったらしい。この世の中で人はいろんな世界観を構築できる。なぜならば時間は平等に与えられているのだから。それをどう使うかはその人次第であって、ほかの誰でもない。そんな当たり前のことを今さらながらに気付くため、旅を続けているのである。


2004-05-12 カゼなおる。 [長年日記]

Istanbul

カゼが治った日というのは不思議とワカルものである。今朝、起きたとき、昨日までとはまったく違うフィーリングだった。イスタンブールに到着してからずっと悩まされ続けてきたカゼ。その終焉は、意外と簡単なものだった。

友人のロビンと淳君、創君、そしてデリー以来のシミズ君と出会った。場所はツリーオブライフという安宿。そこには日本人の管理人がいて、こいつがまたオレとは合わない感じ。それだけでも、いまの宿でよかったと思う。人はたいせつ。だって、会社だって、遊びだって、そうじゃない?


2004-05-13 旅の途切れ [長年日記]

Istanbul

風船がしぼむかのように、旅への情熱を失うときがある。今回の場合は、日本を感じてそこに属していない自分を想像したからではない。いつの日からか、アジアを横断するのが夢となっていた。たかだかアクロスアジア。こんなもの、ある水準以上の熱意があれば、誰にだってできる。それでも「できない」という人はさて置き(いろいろあるでしょうから)、何カ国かをかけめぐって、さまざまな人と出会ってきた。気の会うヤツも多かったし、どうしようもないヤツらもいた。たとえば、アフガニスタン人などは、救いようも救われようもない。自分の足で、いまなお自立することができないのだから。ソ連侵攻から始まり、部族間抗争、タリバンの急進、アメリカの資金援助、崩壊後のNGO乱立。彼らは常に金をもらい続けている。これからもずっと。止まったのは戦車だけ。アジアでは笑顔とよく出会う、と人は言う。なんのことはない、それは日本人の笑顔だった。

数年来の過剰なまでに膨張した夢の実現を終えた、自分はどこへ。答えは、近くにあった。とにかくアジアを出ること。この練りに練ったインスピレーションを持って、別世界に身をおかなければならないと思う。それも旅。カネもジカンも、はっきり言ってもうどうでもいい。オレはここにいる。

今週末から、アジアを留守にします。東欧へ。


2004-05-15 選択 [長年日記]

ISTANBUL

アフリカ縦断、やめました。理由は資金不足と勘です。実際、ちょっとバイトをすればアフリカ縦断なんてできるのですが、ま、今回はアフリカに呼ばれていない。あと、ふつーに旅しても自分としてはおもしろくない。いま行ったら、「アフリカに行ーきーまーしーたー」程度のもんです。薄い旅はしたくない。何かテーマが定まるまではお預けで、けっこう毛だらけ。チャダルトレックでの挫折やアフガニスタンでの濃い日々で、いまは十分です。その興奮を整理するためだけに、イスタンブールに11日もいたのだと思います。これらの経験を生かして、雑誌やら何やらに打って出たいというのが今の正直な気持ち。その外堀を固めるために、東欧とイスラエル近辺を見ておくのは必要不可欠かなってことです。最近の日記、明るくないかもしれませんね。イスタンブールも同じような天気です。

本日のツッコミ(全2件) [ツッコミを入れる]

 [あ、ごめんアフリカ行かないんだね。今時間差でメール出しました。でもそういう気持ち分かるよ。 最近の日記明るくないかも..]

かんりにん [そういってもらえるとありがたい。もう、旅が日常なのね。喜怒哀楽を出してもいいし、出せるところにやっときた。スナフキン..]


2004-05-16 ヒッチ3つ。 [長年日記]

ISTANBUL→EDIRNE→border→HASKOBO

11日もいたKONYAペンションを出た。ヨシヤとロビンは寝ていて、ユミちゃんが送ってくれた。「3週間後、シリアで会おう」が別れの言葉だった。振り返らない。今日からヨーロッパへ行く。物価は高い。相当、安い交通手段を見つけなければならない。そこで結論に達したのがヒッチだった。とはいえ、大きな都市から出るヒッチは難しい。ということで国境の近くの街までは鉄道で行くことにした。やたらと家族連れが乗ってくる。そうだ、今日は日曜日だった。ある家族と仲良くなった。EDIRNEの街はずれには歴史的なモスクがある、ということで迎えに来ていたお父さんに車に乗せてもらう。あっけないほど簡単に初ヒッチは成功した。モスクは立派なものだった。しかし、自分はパキスタンからずっと見続けてきただけに、他との差を探して観光は終わった。国境に向かう。ヒッチは成功しない。そうこうしているうちに安そうなボロバスが来たので、それに乗った。国境を越えようとすると、車に乗れ、と言ってくれるおっちゃんが登場。難なくボーダーを越える。荷物検査も何もなし。ノンビリとした国境だ。乗せてくれたおっちゃんはビジネスで行き先と違う方向へ向かうらしいので、検査を受けてすぐのところでバイバイした。次の車を探す。トラックや乗用車が何台も通り過ぎていく。ブルガリア人はヒッチさせてくれなかった。1時間以上たって、一台の車が止まってくれた。というより止めた。太ったトニーの車に乗せてもらう。緑の絨毯を敷き詰めたような大地をFORDのESCORTは排ガスをぶちまきながら進んでいった。途中、彼の叔父がいるというヴィッセルという村により、目的地のハスコヴォへ。高速道路を降りてしばらく走ったため、次のヒッチが難しくなる。それとともに日も暮れてきた。ホテルは現金がないので泊まれない。あるガソリンスタンドの裏にテントを張らせてもらった。夜勤の彼の名はミッシェル。ありがとうミッシェル、と思っていると雨が降ってきた。冷え込んで寒い。街のガススタの裏で凍えているのだった。


2004-05-17 雨はやる気を奪う。 [長年日記]

HASKOBO→SOFIA

起きたら雨が続いていた。これだけでヒッチを断念するのに十分だった。雨具がないのでヒッチポイントにすら行けないからだ。バスに乗る。ソフィアには3時間でついた。空は曇っているけれども、観光はできる。ということで、5つの教会、ひとつの市場、ひとつのアートギャラリーをまわった。ギャラリーは力の入ったものばかりでおもしろい。ウタマロやヒロシゲの浮世絵、モナリザの贋作、アフリカの木彫り人形など、かなりの質と量を見た。泊まった宿はビキ。72歳のまるでドーラおばさんのようなおばあちゃんが経営している日本人に人気の宿である。しかし、いまは日本人がいなかった。ひとりで飲む。飲んだくれて寝る。


2004-05-18 3択。 [長年日記]

SOFIA→RUSE→RUMANIA-border

ここからのルート選択は3つあった。ひとつはマケドニア経由ドブロヴニク行き。「魔女の宅急便」の構想の元になった街だとか。アドリアンブルーの海を眺めながらのヒッチハイクです。もうひとつはベオグラード経由ブダペストと見所をすっとばしてプラハを最短で目指すルート。で、最後が灰色の首都と呼ばれるルーマニアのブカレスト経由でブダペストを目指す道。選択したのは最後のルーマニア経由。ある旅人が言っていた。「あそこまで灰色だと逆に興味がわきますよ」。これが決定した理由です。あとは値段も少しあるかな。これから国境のRUSEに向かい、夜ゴハンを食べたら、ルーマニア行きの電車に乗ります。流れ流れて一人旅。やっと調子が出てきた!


2004-05-21 [長年日記]

BURASOV→ARAD→HUNGARYborder

黒の教会の中を見た。こんなことを行ったら「もったいない!」とお叱りを受けそうだけれども、実は教会に飽きてきている。モスクのときもそうだったなぁ。パキスタン、アフガニスタンとがっつり見て、そのあとにイランやトルコに行ったらすでにお腹がいっぱいだったさ。ウワサには聞いているんだけど、どうやらギリシャ、トルコの海側、シリアとたどるとギリシャ系コロシアムとかばっかりらしい…。それでもペトラは別格らしいけど。

宿に帰る前に、裏山の山頂へ。ロープウエイで。ルーマニアの旗がハタハタとはためく下でルーマニアの大地を見た。馬車が通っているであろう畑が延々と続く。建物があるところはオレンジ色の屋根が続く。すばらしい。

さてさて、ということで久々に2泊したブラショフともお別れ。駅で国境までの値段を聞くと450000Leiだそうな。窓口に並んでいたら、ずずいとフローレンス(英語ではフラワーって意味らしい)というガタイのいいやつが寄ってきて、「バスなら安いぜ」と。値段は350000Lei。確かに安い!ということでバスに予定変更。アレ?ヒッチは?といわれそうだけど、ラクチンをチョイスしちゃいました。女心とか、秋の空とかをどうこう言えない変わりっぷり。そんな自分に新たな可能性を発見したり。バスの旅はとても快適。街で人を拾おうとするんだけど、ドライバーの客の引き方がヘタでヘタで。笑っちゃうぐらい。ゴロリと横になれることもしばしば。夕暮れとともにバスは街へ。時計を見たら21:30。なんだこりゃ。大急ぎで駅に行ったら、またバスの客引き。おいおい半額だよってことで、そのままバスへ。アラッド駅周辺は酔っ払いが多かった。で、自分も絡まれた。「なんだおまえジャポーニャか」。「ナカタ、だな」。きたきた。ここで相手の国の選手をほめるとややこしさ半減だ。「ハジはすばらしかった。そう、あのチーム全員が金髪で出てきたときは特にすばらしかった」。これで周りの雰囲気がガラリと変わる。チェルシーのアドリアーノの話をしたり。サッカー知識、大切です。さすがヨーロッパ。


2004-05-22 ブダペスト到着。 [長年日記]

HUNGARYborder→BUDAPEST

久々にきれてやった。うっとうしいと聞いていたルーマニアボーダーは一瞬で終わり。ハンコをポン、だったんだけど、実はハンガリーボーダーの方がよろしくなかった。ネチネチと調べる係員。そのうえトランプのケースを破いたり、紙の束が入っているハードケースの留め具を壊したり。あまりにもひどいので、その後の荷物をひとつひとつチェックしているときに、口を挟んでみた。たとえば「それ、ノートだよ。日記。呼んでもいいけど内容は分からないよ。それ、ノート。ノートって意味は知ってる?ネタなんか入ってるわけないでしょ?つか、入るものなら入れてみろっての」「いやー、ノートを匂うなんて奇特な人ですね。すごいねキミは」「ハンガリーで働く気かって?ハンガリーにどんなビジネスチャンスがあるんだ?教えてくれよ」などなど。書いてしまうと低レベルと思われるかもしれないけれども、けっこう国境ではよくある話よね。で、乗っていたバスはというと値段をけちったため客層もよくなかった。ジプシーとかばかり。最後まで信用してよいやら、どうやら。さらには、えらく町外れのターミナルでおろされて4kmぐらい歩いていると雨。こんな国さっさと出てやる!と意気込んでいたわけです。でもね、歩きながら都市部に入ったとき。具体的には東駅からくさり橋方面に歩いているときに「ヨーロッパに来たんだな」と思った。着いた感覚がみなぎった。オレはヨーロッパにいるんだという確信が来た。あったとか、みなぎった、でなくてやってきた。そういう町並みが小雨の中、ザックを持って歩く自分を出迎えてくれた。そして再会。アフガンの半分を一緒に旅した創くん、ルーマニアのブラン城で会ったモンゴル君。長くなりそうです、ブダペスト。

本日のツッコミ(全2件) [ツッコミを入れる]

芸人 [僕はモンゴルの沙漠から帰ってきたとき、神戸港の税関で別室に連れて行かれてパンツ一丁にさせられたのですが、 なんかうら..]

かんりにん [モンゴルからなのに?さすが芸人さん。吼えましたか(にやり)]


2004-05-31 仕方なく [長年日記]

PRAGUE→