2007-01-23 いろいろいろいろ [長年日記]
okurayama_yokohama
旅のweb、正直言って乗り気になれなくて進めてなかった部分がある。端的に言うと、旅のwebなんて意味がないとずーーーっと感じていた。
世の中はどんどんバーチャルになっていて、ネットさえあれば知らなくても知ることができるし、行かなくても行った気になれる。例えば自分が写真をwebに載せていろんな人に写真や文章を見てもらったら、「見た→知った→分かった」と勘違いして、逆に足が遠のくと感じていたのだ。だって、そうでしょ?手前味噌だけれども、写真を掲載すると行ったことのない人がアフガニスタンやエルサレムやラダックを知ってしまうのよ。それがヘタに忠実な写真や文章であればあるほど、その勘違いは大きくなっちゃう。友達だったら写真を見せながら語って、「これはこうなの?どうなの?」と聞かれれば、旅人として見てきたものくらいは伝えることができる。でも、webはお茶や飲みに行ける知り合いだけが見るとは限らない。
もちろん自分に文才や写真の才能がもっともっとあれば、その心配がないというのはもっともな意見。でも、ゴルゴ13じゃないけど「おれはそんな自信家じゃなくってね」みたいなところも、そりゃーある。正直、それが大きい。悪影響の可能性があるものなんて発信しないにこしたことがないからだ。中途半端に伝えることができてしまっても…と思っていた。ライバルとおぼしき人たちが、その効果を分からず発信し続けているわけで、それで仕事ももらっているわけで、そりゃはらわたも煮えくりかえるところがあったよ。
もう一度言う、だって旅のwebって、実際に見た人が強烈に行きたいと思わなければ意味がないもの。自己発信が芸術に昇華できればメデタシメデタシだけれども、下手に行かずに済む情報になっちゃったら危ないよな。いま、情報化社会でイラクの戦争などを語ったりできて、戦争の原因やら社会情勢の現状や行く末を何割かは正しく理解しているのだけれども、痛みを理解している人なんていやしない。傷を負えば痛い、家族が亡くなると人生が変化するほど哀しい。生命体として原点にあることほど最も伝わらない。僕にはそれを伝えきる自信がなかった。あの地で見たものを目の血管から皮膚までで、すべてで体感して、呼吸すれば悲しみまで吸い込める嗅覚のようなものを伝えきることができない気がしていた。うーん、いまもやっぱり、その気はしている。体温や息づかいや、苦しみや悲しみや、そういうものがあるからこそ出てくる笑顔や…と書けばやっぱり陳腐だね。そういうことじゃないんだよ。
いまここでこれを読んでいる人と同じく、時間って南極のペンギンにも、シーア派の人たちにも、アマゾンの原住民にも、隣の家の人にも流れている。それが地球で、それが旅なんだよ、魂の。おれはちっぽけだけど、少しだけ言葉と写真を扱える。いまここで、失敗を顧みず立ち上がってみようと思った。動かなければ何も起きやしない、現状から下がっていくだけで、それを救えるのはいろんな個人のチャレンジだと感じた早朝。
まずは写真とキャプションをアップします。最初はブルガリア。
てことで、あと数日お待ちください。
めちゃ決意の文ですな。<br><br>WEBの存在で人は脳内で物事を経験したつもりになっている。<br>情報による脳内社会。<br>そこに人間らしい温かさとか泥臭さとか美しさを<br>感じられる人は少ないんだろうなあ。<br><br>応援してまっせ!
なんか紙とwebの差をあらためて分かったというか。紙は「知らなかった」と知ることができるんだけれども、webは「分かった」と思っちゃう気がする。暴れるで。暴れようぜ。
私もあらためて、「行動せねば」と思いました。がんばるぞ〜!!
がんばりましょう。命は燃やすためにあるっす。
Webで写真って自分は好きですよ。<br>見ていて「行きたい」って思うことが多いかな。<br>でも紙とWebの差は確かにあるよね。<br>何でだろう。質感の問題なのだろうか?
質感もありますし、あとは有料・無料ってのも大きいと思います。<br>物質として目の前にあるフリーペーパーは紙だけど愛着わきませんもの。