2006-09-05 視聴者という存在 [長年日記]
okurayama_yokohama
自分もそうだけど、インターネットというものができ、さらにblogやSNSができるようになって、一般市民が政治やスポーツの評論をできるようになった。うまくLINKやトラックボールすれば、かなりの人に見てもらえる。これまではできなかったことが、できるようになったのだ。個人的には、この類いの情報群というのは、とてもやっかいな性質を持っている気がしている。例えばmixiなら、右側にニュース欄があり、そのニュースにコメントした人の日記を見ることができる。良く言うなら、そのニュースに対してみんながどんな印象を持っているのか知ることができるし、ニュースに付いているレスの数を見れば日本人の多くがどんなことに返事したがるのかが分かる。
今日、W杯決勝で起こったジダンとマテラッツィの頭突き事件についてマテラッツィが真相を話したそうだ。それについたレスはちょっとの時間で100件以上もある。そしてその中でほとんどの人は、「もう遠い思い出」という感じで書いている。当たり前だ。人が記憶できる情報量なんてたかが知れている。職場や恋愛のことの方が覚えておくべきことだし、サッカーフリークも他に好きな選手や試合やリーグなんてのがあって、その事件だけとなるとよっぽど興味がない限り遠い記憶になりやすい。なんかここら辺が亀田戦などに見ることができるメディアの増長の原因という気がするのだ。面白い事件(笑えるでも、興味深いでも、議論の対象でも、視聴者次第の「面白い」)がすでに遠い日にされた我々は、あの事件はああだったこうだったなんて当時は言ってるけど、メディアにどんどんエンタテイメント的な情報をブロイラーのように食わされて、知らず知らず深層心理の中で「次はどんなおもしろいことがおこるのかなー」となってしまうのである。そこに賛否両論の亀田戦があったり、ハンカチ王子があったりする。時にはJR西日本のような忘れてはならない不祥事も混じっている。それでも、与えられる→忘れさせられる→与えられる→忘れさせられる…。むっちゃ踊らされてるやん。ああいう仕掛けに乗ってはいけない気がする。マジメに語ろうと、冷やかそうと。今日、いろいろ見て、「おれ余分な情報いらんわ」と思ってしまった。
情報がたくさんあるほど人は良いという。単純に考えれば、そりゃそうだ。選べるんだもの。インターネットをうまく使えば、同じ雇用条件で時給の良い派遣元を見つけたりもできるし、知らなかったことを勉強できたりもする。でも、これとレス群というのはまったく違う気がする。あと、mixiなどではどんなヤツが書いても一人1コマである。これでは情報の共産主義だ。ネットという資本主義の最たるものの中では、アホでも知識人でも、性格が曲がっていても素直でも一人1コマなのである。これは極端な見方かもしれないが、違うと言うともっと危ない。暇な人ほどコマを増やせる逆資本主義だからだ。オカネや労力をかければデザインに凝ったホームページや検索対策なんかもできるけど、こと利用量が多いSNSでの情報は特に偏りがある。インターネットってそういう付き合いをすべきものなんだよな、なんて感じた一日だった。さ、残ったインターネット関連の仕事をたくさんするか…。(最近、ネット関連の仕事が多くて、根が旅人のおれはそういうことを考えちゃったんだろうなぁ)
追加/与えられる→忘れさせられる→与えられる→忘れさせられるで、よかったのは格闘技(特にプロレス)なんよなぁ。小さな体育館とかの地方興行もちゃんとして日本文化にするっていう核があったから、その手法でもよかった。逆に言うとそうでない限り、何度もやるのに興行収入を安定させるという矛盾を解決できないもの。でも、そういう丁寧さが、忘れないファンを産み出し、あの星の数のような興行数のくせに伝説の一戦てのが何試合も語り継がれることになった。素晴らしい。で、ボクシングは試合数こそ少なかったけど、●回戦みたいなランキングを上げていく仕組みだったので、同じく熱いファンを産み出してきた。プロレスでは猪木が、ボクシングでは亀田が、その文化を捨ててあっちの情報文化側に行っちゃったんだなぁなんて、本棚にある借り物の「'94ゴング/プロレス観戦パーフェクトガイド」を見ながら思ってみた。