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sawadee!!紀行+


2004-07-25 アフリカに向けて

LONDON

アフリカに行く準備を整え始めた。ロンリープラネットのアフリカ版を読む。集中して読んでみる。5分で破綻した…。英語はやっぱり難しい。最近になって、やっと話す方が読み書きよりもラクだと思えるようになってきた。いまや忘れつつあるヒンディー語なんて完全な文盲だったからなぁ。でも、逃げてちゃ何も始まらん。というわけで、夕方あたりにビール片手に読み直そう。

昼ゴハンはゴハンである心機一転できるように、昼ゴハンは日本食にしてみた。コメ、納豆、味噌汁、きゅうりの漬物。最高だ。眩すぎる…。くらくらだ。夕方にビール、はガマンできず、この昼ゴハンのときに、枝豆を加えて昼から飲む。日本での休日と変わりない気がしてきた。さいきん日本から来るメールには明るいことが多い。自分が参加した映画は大成功だったようだし、前の職場の人たちは元気で充実しているらしい。大学時代の友人たちもがんばっているらしく、旅で出会った人たちも元気にやっているようだ。こういうのって波があるよね?いま自分も含めたみんなが上向きで、こちらロンドンでもうれしい限り。自分も、旅をガツンとやってやるぞ!アフリカまでの間に、残った東欧の国々をすべて訪れ、サハラ縦断か、東アフリカ縦断をする。最初のアクションは明後日。難しいミッションではあるけれども、ロンドンのアルジェリア大使館とリビア大使館でVISA申請することから始まる。待ってろ!アフリカ。

本日のツッコミ(全10件) [ツッコミを入れる]

Before...

おかだ [あ、ひょっとしてサムネイルの件、解決したのかな? だとしたら野方くんありがとう。 なにか試そうかなと思ってたんだけど..]

のがじゅん [サムネイル問題解決しましたよー。原因はオイラの勘違いでした。 これで高負荷問題が解消される(笑) んで、うらっちさ..]

のがじゅん [あと、日記を書き込むときにタグが一発で書き込めるようになっていたり、テーマをいじったり、http://uracci...]

おかだ [らもが死んだってさー!!]

かんりにん [メ>お先にアフリカをフットスタンプさせてもらいまー! 純>ふっ、アフリカにいけば必ず作風は変わるぞ。撮りまくるし。 ..]


2006-07-25 前置きありの「レバノン憧憬vol.1」

okurayama_yokohama

もう曲がっちゃう、というときはSOSを出した方がいいよね。芯を取り戻せる。今回は、ひとつひとつが小さな不満だったんだけれども、それらが電灯に集まる虫の如く集まって、うがーってなっちゃった。ブログにもにじみ出た。久々にけっこうな苦境だった。思えば、限界が近いときはいつでも、素直に爆発してきた。分かる人には分かってもらえる。爆発の根本にあるのは仕事や相手への愛情なんだから。ちと自分の未熟なところだけど、爆発したときに言霊なり、文章なり、発したものが残ると後で客観的にみることができるし、それを見聞きして冷静になれる。精神的に底を越した感じ。今日は、いいこともあって、それらのおかげでまた走り出すことができそうだ。

さて、レバノン。レバノンといえば何があるか、そのへんから。
まずは料理。ここで断言。アラブ料理のほとんどの基礎はレバノン料理から生まれている。ようするに、アラブ料理の総本山なのだ。モロッコのタジンや、茄子ペーストのホンモス、オリーブオイルを使ったサラダなどはレバノンが発祥の地だという。そして、それは日本人があまり知らない世界常識でもある。三大料理と言えば、フランス料理、中華料理、トルコ料理とされるが、四大料理という概念では、ここにレバノン料理が入ってくる(多くの日本人旅行者が一致するところでは、日本料理、韓国料理、中華料理が三大料理なのだが…)。特徴としては、下味で使われるおおよその方向性は決まっている。レモン、オリーブ油、トマトソースなど。意外なことに、ゴマもなかなかメジャーな存在だ。あの風味に気付くとは、やるな!レバノン料理、である。
アラブ、ということでハラルフード(イスラム教のしきたりに従った素材と調理法で作った食べ物)がメインかと思えば、ここレバノンは違う。ご存知の方もいると思うが、キリスト教徒が非常に多い。だから、周囲のイスラム教国とは違い、キリスト教で認められている食べ物がキリスト教エリアのスーパーで手に入る。代表例は、豚と酒。こられが周辺国と違って、人目をはばからずに購入できる。付け足すが、ちなみに豚は周辺国では完全に売ってない。酒屋はある。そういえば、レバノンでは自炊で豚の角煮カレーなんて食べちゃった記憶も。さっき「スーパー」と自分は書いた。そう、キリスト教エリアにはなんと近代的なスーパーがあるのだ。
なぜ、そのようなことが可能かといえば、まず植民地時代の旧宗主国フランスとの緊密な関係が挙げられる。人口比率ではイスラム教徒が7割、キリスト教徒は3割。そしてその比率どおりにいかないのが経済。簡単に言うと、政治の重要部分〜経済までキリスト教に分があるのだ。内戦までのベイルートは「中東のパリ」と呼ばれ、諸外国の企業の対アラブ拠点として賑わっていた。もちろん日本企業も数多く進出。現在、中東で問題が起こると、すぐに「アンマン特派員」とか「カイロ駐在員」が出てくるが、少なくとも1975年までは「ベイルート駐在員」だったという。そして、アラブ諸国に対するビジネス、という観点から分かるようにキリスト教圏の欧米企業が中東向けに進出していたのだ。その名残を大きく残し、経済を支えるのがキリスト教という現実は、いまも根深く残っている。人口が3割なのに。
http://www.eastedge.com/lebanon/history.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%90%E3%83%8E%E3%83%B3
▲歴史や情勢などは東方観光局とwikipediaが詳しいです。オススメ!

宗教の違いからくる、経済性の違いは目で見て分かる。日本の地名で例えてみよう。京浜東北線の鶴見のような立地にイスラム教徒、自由が丘や田園調布みたいなところにはキリスト教徒。関西で言うと、43号線沿いや尼崎のようなところにイスラム教徒、阪急沿線や芦屋のようなところにキリスト教徒が住んでいる。悪気はないので明言しておくと、自分は芦屋より尼崎の方がシックリくる。とにかく、第三者目線でそういう印象を受けたということだ。私はこの頃、着飾らずに、きばらずに旅を楽しんでいた。そうすると、必然的に生活のほとんどはイスラム教徒エリアになってくる。スーパーで豚と酒が手に入ると聞きつけ、何度か訪れたが、圧倒的にイスラム教エリアでの滞在がほとんどだった。。
ベイルートから80kmほど北上したところにあるティール(現在名は「スール」かな?)という世界遺産に足を運んだ時のこと。80kmの距離をセルビスという乗り合いタクシーで移動するのだが、幹線道路から山間にかけてキリスト教エリアが広大に広がっていた。いかにも山の手。対して、帰りの道は幹線道路から外れた海沿いを走って帰る。ボロボロの民家とモスク。お互いに相容れない関係にありそうだった。そういう住み分けのない小さな街では、両者が共存して暮らしている。なんとなく、日本の中間層を思わせる人々。住んだわけではないので、核心を捉えられなかったが、表向きは問題がなさそうだった。しかし経済格差はグラデーションのように、富裕層と貧民層に分かれていくのだった。
今日はこのへんで。明日以降、おそらく「ベイルート/おしゃれブティックの横がぶっ壊れた建物、そんなの当たり前」「サブラ・シャンティーラ/私は伝えなければならない。大虐殺の起こったパレスチナ人民キャンプの苦渋と鬱積を」について書いてみようと思う。

本日のツッコミ(全4件) [ツッコミを入れる]

jun [あいかわらずあつくるしいでんな。 だからふとru,,,,wiriiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii!!!!!..]

uracci [そうやねん、おもしろく書きたいんやけど まだアレなんや。 いや、でもな、レバノンは書きたくて書いてるわけや。 好きや..]

jun [あれあれ言ってからに。そんなん僕ゆるさないですよ。おじいちゃん。 好き嫌いをはっきりさせつつ折れるところは折れる。..]

uracci [折れたらあかんところは、おれたらあかんよー。 人生生きてたら、折れてるもんと、折れてないもんばっかりや。]